~ Report TWO ~
感動、感動!、感激!!
1999年7月16日
ヨス・インディ・ファンデーション主催のガーマフェスティバルに来てまだ1日も経っていないのに、いろいろなことがあり、1日が長く感じた。でも本当はここまでの出来事は今回のフェスティバルのほんの一部だったことには私自身まだ気づいていなかった。
16:00目の前で描かれたイダキのアートを買う約束をしてさらにご機嫌だった私だったが、なにやらグランドの外が賑やかなことに気づく。フェスティバルの象徴である黄色いトーテムポールとは反対側にペイントをしたアボリジニたちが約50人集まっている。その集団に気づいた時、クラップの音と先頭にいる男性の歌声が聴こえ始めた。それに併せてアボリジニの集団がこちらへ向かって歩いてくる。まず赤いふんどしをした男性たち、男の子、そしてカラフルな洋服を着た(どう見ても普段着であるが)女性たち。その行進の両側を、今回招待を受けた白人や、この行進に参加していないアボリジニたちが取り囲む。カメラのシャッターを押す者、じっと彼らの一挙手一投足に見入る者。その行進が進むたび取り囲んだ人たちも動く。やがてトーテムポールの前で集団の動きが止まる。集団の中からなにやらヨング族の言葉で話し声がする。やがてまたクラップスティックの音と共に歌声が響く。女性たちは一歩後ろに下がり、男性たちが踊り出す。最初は軽く足踏みをする程度だったが、最後のリズムでは地面を蹴り上げるような、あのアボリジニ独特の踊りが披露された。まだ赤いふんどしをさせてもらえず、短パンで踊るティーンズたちは元気良く、飛び上がる高さも高い。ちょっとおなかが出ている大人たちは1曲1曲終わるたびにちょっとへたばっている。その中に混じっておそらく3~4歳ぐらいの小さな子供も踊り出す。あんなに小さいのにちゃんと地面を踏みしめている!私はこの光景を見て昔の日本の夏祭りを思い出した。子供も大人も楽しみにしていた夏祭り。子供たちは大人たちの姿にあこがれ、大人たちは子供たちの元気に負けずとがんばる姿。今の日本では見かけることも少なくなった風景。それがこのアーネムランドには残っていた。今までアボリジニの人たちと接することが少なかった。むしろ彼らがそれを望んでいないと思っていた。でも今日1日このフェスティバルにいただけで、彼らは自分たちと変わらないことに改めて気づいた。子を思う親の気持ち、家族愛、隣近所は皆親戚付き合い。彼らは都会に住んで忘れてしまった自分たちの心を持っている。確かにアボリジニの中には酒におぼれてしまい、都会でドロップアウトしてしまった人も多くいるだろう。今までそういうアボリジニたちを多く見かけていたが、ここにいる人たちは、少なくとも今日一日はとても輝いていた。とても生き生きとしていた。
気が付けば先ほどの集団の踊りは終わっていた。周りにいた人たちは皆満足げにバラバラと自分たちのテントに帰ろうとする。とその時、アナウンスが入る。「皆さんまだその場にいて下さい。あと4組のグループがダンスを披露しますのでどうかまだ移動しないで下さい。」
最初の一組だけでも十分満足なのにまだ4組もダンスを見せてくれるなんて!
彼らのダンスは日が沈んでからも続いていた。生涯忘れられない夜になった。
1999年7月17日
08:00 雲一つない朝がまた始まる。朝食を平らげ、グランドへと向かう。昨日のイダキの絵はもうできただろうか?あずま屋へ行ってみるとそこにはまだ絵を描いている女性たちの姿はなく、イダキの先生だけが座っていた。特に会話を交わさなかったが、じっとそばに座っていた。それだけで嬉しかったから。
09:30 白人男性に声をかけられる。ABCテレビのレポーターという彼は、私にインタビューをしたいという。もちろん断る理由がないので快諾してついていく。
グランドから離れて彼らの用意した「スタジオ」に通される。スタジオといっても木陰にイスが一つあり、そこにカメラと音声のスタッフがいるだけだ。近くにはアボリジニの子供が2人ニヤニヤしながら緊張している私を見る。
インタビューでは差し障りないことを聞かれた。この前に受けたラジオのインタビューでウォーミングアップしたため、いくらか私の英語は理解してもらったようだ。後にそのインタビューの模様が全豪に放映された、とメルボルンに住む友人から教えてもらった。(ビデオも入手し、嬉しいやら、恥ずかしいやら・・・)
13:00 さて、インタビューも終わり昼食の時間になった。実は私にはやらなくてはならない1つの「野望」があった。それはあのYothu Yindiのリーダーでもあるマンダウィ・ユヌピング氏と話をすることである。朝食の時にもチャンスはあった。でもどうしても声をかけられなかった。そしてこの昼食時に名誉挽回のチャンスが訪れたのだ!昼食会場の隅でABCラジオのレポーターが彼にインタビューをしているではないか!私と家内は彼らの後ろ約3メートルの丸太に腰掛け、彼らのインタビューに耳を傾けた。何を話しているのか良く聞き取れなかったが、私の頭の中には彼に話しかけるイメージトレーニングが繰り返された。
心の準備が出来る前にラジオのインタビューは終わってしまった。彼はそばにいた妻と子供の元へ行こうと立ち上がった。今だ!(以下会話はもちろん英語である)
私「あの、すみません。ちょっといいですか?」
彼(笑顔で)「もちろん。」
私「上野哲路といいます。日本から来ました。私はディンカム・オージー倶楽部というアボリジニの文化を日本で紹介する倶楽部を運営しています。」
彼「ああ、知ってるよ。友達が教えてくれたよ。」
私、(感激!)
私「確か、5~6年前に来日しましたよね。」
彼「ああ」
私「今度はいつ来るのですか?」
彼「さあ、わからないね」
このときすでに私の頭の中には次の野望が浮かび上がった。「よし、いつか彼らを日本に呼ぶぞ!」
私「これ、私の作っているアボリジニ文化の情報紙です。日本語ですが、よかったら見て下さい。」
彼「ありがとう。」
私「最後に写真をいっしょに撮ってもいいですか。」
彼「ああ、もちろん。」
私と妻はいっしょに写真を撮ってもらった。他愛もない会話だが私の心臓は小刻みにリズムを刻んでいた。
野望を達成した後の昼食は不思議と美味しく感じた。
14:00昼食を食べ終わるとまたイダキマスタークラスが行われたあずま屋へ戻った。もうそろそろあのアートが出来上がったのではないか?そんな期待を胸に行ってみると、私のアートを描いていた女性はいなかった。しかし私にアートを買うように勧めてくれた女性はそこにいた。彼女は私を見つけるとちょっと微笑み、すぐにこういった。
「出来上がったよ」
その絵は黄土色の下地に大きな円が描かれ中央にイダキが描かれている。その両側にはパイソンと呼ばれる、蛇が2匹横たわっている。彼女たちに絵の説明を受けるとますますその絵が好きになった。
14:15 絵を勧めてくれた女性は描いた女性の母親だった。娘は戻ってこないと言っていたのでかわりに母親に代金を支払う。満足してその絵を眺めていった。幸せな時がゆっくり流れる。
14:30 あずま屋ではイダキマスタークラスでとびきり上手いと私が感じた男性がイダキを吹いていた。どうしても彼の演奏をマスターしたい、そう思った私は彼に了解を得てビデオに彼の演奏を収めようとした。すると突然、ビデオのディスプレーに何かが横切った。アボリジニの子供たちがビデオに映ろうと集まってきたのだ。実は今まで私は意識的に子供たちを撮影しなかった。それは数年前、アボリジニの子供を無断で撮影した白人男性が、その子供の父親にカメラを取り上げられ壊されたのだ。その事件はその後裁判沙汰にまでなったそうだ。だから今まで子供を撮影することにちょっと神経質になっていた。でも今回は違う。子供たちが自分たちから映りにきたのだ。私のビデオは液晶画面がついている。数人の子供は画面を覗き、ある子供はカメラに映ったとファインダーの前に立つ。映った友達を見て笑う。私も笑う。次第に何人もの子供たちが私の背中に、足に、肩にのしかかる。今度は液晶画面を裏返し、移っている本人が自分の映像が見えるようにした。すると皆ファインダーの前に群がる。皆いい笑顔になる。私は彼らと笑顔で会話を楽しむ。「これを押すと凄いんだぞ」「わあ、変な顔!」「今度はこんな顔をしちゃうもんね」
この後私はビデオのお陰で一躍人気者になる。
15:00子供たちとコミュニケーションを楽しむと、グラウンドの向こうからアボリジニの歌声が流れてきた。このフェスティバル中数人のアボリジニが描いていたトーテムポールが完成したようだ。フェイスペイントをしたアボリジニたちがトーテムポールを担ぐ。歌いながらゆっくりとグランド中央へトーテムポールを運ぶ。やがてトーテムポールがある位置で立てられる。数人の男がそのポールに向かって踊り出す。気が付くとユヌピング氏もその輪に加わっていた。
男の踊りが終わると、皆ゆっくりとトーテムを描いていたあずま屋へ向かって歩き出す。鳥が餌を啄むようなポーズをとってゆっくりと歩く。15分ぐらいは続いただろうか、たった数十メートルの距離を本当にゆっくり歩く。あずま屋の前でダンスがしばらく繰り広げられると急に皆嬉しそうな顔をしてバラバラに散っていく。握手をする者、楽しそうに会話をする者。フェスティバルのクライマックスが幕を閉じた。
15:45一旦テントに戻り、ヨス・インディのライブへ行く準備をする。会場へ行くバスが向こうに見える。ちょうど1台のバスが出発してしまった。あわてて走り出すとすでにもう一台のバスもたくさんのアボリジニが乗り込んでいた。家内と2人でバスに乗り込むと運転手は後ろの座席を見て、空いている席を探す。すると後ろにいた数人のアボリジニが「ここが空いてるよ」と指さす。その空いている席に向かう。よく見るとアボリジニが8割、白人が2割弱、そして私たち日本人2人。とても奇妙な光景だった。バスの中はアボリジニの汗のにおいでちょっとつんとしていたが、不快には感じなかった。私たちの座席のすぐ側では子供たちが大騒ぎしている。車が急な坂にさしかかると大人も子供も「お~~」と歓声が上がる。そんな光景がとても微笑ましかった。まだモノがそれほど溢れ帰っていない、あの古き良き日本がそこにはあった。
この後のヨス・インディのライブも感動的だったが、何よりもヨングの人たちとふれあえたこの数日間は何ものにも代え難い私の宝となった。(おわり)