(1) 彼
「彼」はイダキマスターとして世界で最も有名な男である。世界中から彼のイダキを求めてやってくる。
彼に確実に会えるのは、ガーマフェスティバルという会場だけだ。私が第1回目から毎年、この会場に足を運ぶ理由のひとつでもある。
2003年のガーマフェスティバルは、規模も拡大し、参加者は1000名近くに及んだオーストラリア最大のアボリジニ・フェスティバルになった。今年はオーストラリアの主要テレビネットワークが中継にやってきた。内容も施設も格段によくなったし、明らかに前年の反省が生かされたいいイベントになった。
ただ毎年参加している自分にとっては、今年はある意味「分岐点」でもあった。今回は「一参加者」としてではなく、正式にスタッフとして招待されたからだ。日本からの参加者をケアし、問題がないように重要事項を伝える。さして大きな問題も起きなかったのでほっとした。でも、十分なケアができたかどうかは大いに不明であるが。
5日間の彼のレッスンは毎年変わらない。抽象的で未だに意味の分からないところもあるが、舌の動きが重要であるということはよくわかった。おかげで確実に数年前よりは音が良くなったと思う。今年はスタッフとしてレッスンには自分のイダキを持っていかず、できるだけ彼のとなりで、彼の言葉に耳を傾けようとした。今回のイダキマスタークラスを仕切っている親友であり、尊敬するイダキ奏者、ジェレミーの姿を昨年見て、そうしているジェレミーの姿に憧れたという不純な理由もある。5回のガーマと、数回のアーネムランド訪問でようやく彼に自分の存在を知ってもらったと思う。自分は彼やヨルングの人たちに上手くとけ込むのが下手だと思う。始めて参加した参加者はどんどん積極的に彼らの中に入っていく。自分は彼らが声をかけてくれるのを待っている。ヨルングの人たちと上手くつきあうには、彼らに何かを強要してはいけないと思ったし、今でもそう思っている。でも今になって、もう少し積極的に声をかければ良かったと少し後悔した。
すでに数回体験したイダキマスタークラスから自分は何を学べるだろう、何に感動するだろう、何が自分を大きくしてくれるだろう・・・。そんなことを自問自答しながら、彼の横で彼の言葉に懸命に耳を傾けた。
その答えは最終日に突然訪れた。
いつもならば最終日には午前中、彼の話を聞き、彼のイダキ・パワーを胸に送ってもらうといったいわゆる「儀式」で締めくくられる。だが今年は、午前中は「イダキ」に関するフォーラムが開催されることになった。そのフォーラムはイダキに関する話をアボリジニの長老や、研究家などから聞き、討論するものだと聞かされていた。正直に言えばあまり期待はしていなかった、学識者の美談を聞いて勝手に納得するものぐらいなものなのだろうと。
主催者であるガルウィウィ・ユヌピングや、長老、アメリカとヨーロッパのイダキマスタークラスの参加者をまとめたフレッドなどイダキに対する情報や思いを語った。
そんななか、ジェレミーのスピーチで会場の空気が変わる。
「イダキは、明らかにアーネムランドが発祥の伝統楽器です。ディジュリドゥと呼ばれる楽器がオーストラリアで販売されている。そのディジュリドゥという楽器のほとんどはアボリジニ以外の人や伝統的なイダキとは全く関係のないアーティストが制作したものです。それらのお金はどこにいくのだろう?」
「イリカラ・アート・センターから2001年に販売したイダキは約1072本。ノーザンテリトリーのディジュリドゥショップ約44件に問い合わせをして、回答をくれた28件で販売されたディジュリドゥが約17000本です。それらの売り上げはいったいどこにいくのだろう?考えてほしい。イダキには定義がある、伝統もある。では、ディジュリドゥには?よく考えてみてほしい。」
ジェレミーの心はすでにアーネムランドの中に入っている。彼にとって、いや、きっとヨルングの人たちにとって、イダキが一人歩きしてディジュリドゥとして知らないところで広がっていることは、大きな心配事なのだ。
女性が演奏することについての質問が出る。アボリジニの長老はゆっくりと答えた。
「イダキは男性が創り出した楽器です。女性には女性がつくりだした様々なものがあります。それが私たちにとって当たり前のことです。決して女性蔑視をしているわけではない。あなたがた女性が演奏したいのであればそれはあなた次第です。私たちは肯定も否定もしません。」
これは現時点では一番正しい答えなのだろうなと思った。彼らにとってはそれが当たり前のことなので、それ以上の答えは出せないのだろう。今年のガーマではイダキマスタークラスで女性の演奏が許された。それは何を意味するのか?今後のガーマのあり方にどう影響するのか?今は何とも答えが見つからない。ますますイダキに対する思い入れが深くなるとともに、自分のやっていることがはたして正しいことかどうか?よく分からなくなった。
そのときである。彼がゆっくりと発言をした。それは、決して上手な英語ではなく、辿々しくもそれでいてしっかりした意志をもって・・・
私は感じています。
遠くでいろいろなことが起きていると。
ヨルングとは違う方法で、違う地域で、違う宗教で、私たちの見えないところで。
私たちには理解できないことが。
わたしはわたしのトーテムに導かれている。
違う部族の違う聖地、違う言葉についてはよくわからない。
でも私はすべての部族に敬意を払っている。
これは私の亡くなった父がくれた考え方。
私の兄と私はあなた方の誰かがノックをすれば、「何がほしいか」と聞くだろう。
違う場所から来た、遠い違う国から来たあなたがたに、私の知識と心をオープンにしている。
これは私の方法。互いを敬うことが大切。
もしよくわからないなら、それは仕方ない。
私はあまり英語でしゃべるのが得意じゃない。
私は何かをこころからあなた方と分かち合いたいと思っている。「私はあなた方を歓迎する。こっちへ来なさい。何がほしいんだ。」
そういって握手する。
わたしはあなたを私の方法で歓迎する。
何がほしいんだ?
わたしたちは、ヨルング(人々)。
私たちは一つ、同じ血がかよっている。
すべては違う。
違う皮膚、違う言語、違う歴史。
私は私の言語がある。
私の儀式がある。
あなた方にはあなた方の考えがある。
私が死んだとき、皆わたしの葬式に来てくれるだろう。
私は遠くへと旅立つ。
ゆっくりといろいろな国を見る。
違う国を見る。
違う部族を見る。
わたしは私の生活を共有することが私のやり方。若い人たちに「ここに来なさい」といってもいうことを聞かない。
かれらはいつも飛び回っている。
人々に加わり、よく聞くこと。
それが尊敬というもの。
私の言っていることがわかるかい?
海外から、オーストラリアからやってきた私の友達。
わたしたちはおなじ人間だ。
私は私たち人々のこと、私たちの色々なことをあなた方に教えてあげよう。
歓迎する。
私の妹は英語が上手だ。
でも私はあなたたちの考えを理解しているけど、しゃべるのは苦手だ。
私はあなたがたに敬意を払っている。
もしあなたが私のイダキがほしいなら、私はあなたに与える。
私の魂とつながっているイダキを。
でも問題もいろいろある。
あなたがたは素晴らしい。
この地を大切に扱っている。
あなたがたはここへ来るときには私たちに敬意を払って来てくれている。
ドアをノックする。
「ジャルー、何か手伝いたいんだ」
「手伝ってくれるのかい?」
「手伝いたいんだ」私は敬意を払うことが一番大切だと思う。
私の心と考えは、何が起こっているか知りたがっている。
私は本当のことを話す。
良い人間はよい尊敬をもっているから。
許してほしい。ちょっとしかはなせない。
英語が上手くないから。
わかってくれるかい。
私が話している考えは私の父が教えてくれたもの。
父は狩りに行くときもブッシュに行くときも、いつでもイダキを持って歩いてた。
そして教えてくれた。
あなたは心をひらきなさい。
それが大切。そう教えてくれた。
私はそういう人間だ。
父のように正直な人間でありたい。
人々がノックする。
心を開く。
「何がほしいんだ」
「何かあなたにできることは?」
「お互いに助け合おう」
それが私の意見だ。
別の世界では、私はドイツに行った。
ドイツでは私は子供。
彼らは私を助けてくれた。
人々は私のイダキをほしがったから、私のイダキを与えた。
私は人々にイダキを教えた。
あなたの考え方は正しい方向だと思う。
私は孤独な人間だ。
私はヨスインディ(ガーマの主催者)を助ける。
それはいいことだと思っている。
わたしの考えを聞いてくれてありがとう。
涙がとまらなかった。きっと、それは言葉じゃなかったのかもしれない。彼の心はいつでもいっしょなのだ。そのひたむきさが、私の心に響いてきたのだろう。彼の周りがどんなに浮き足立っても、彼がどんなに有名になっても。彼の周りの人々に利用されても、彼は昔からかわらなかったのだろう。ジャルー・グルウィウィというイダキ・マスターに会えてよかった。自分は決して彼の「信者」というわけでも、熱狂的なファンというわけはない。でも、彼の素朴さ、バランダに対する寛容さには頭が下がる。彼が生きている今、こうして目の前で話し、握手をし、イダキまで習ってしまう自分はとても幸せだと痛感する。ジャルーに今、私は声をかけたい。
「ジャルー、あなたは今何が欲しい?」
(2)愛すべきバティクパじいさん
(レポート:哲J)
我が家に、2本のイダキが描かれた樹皮画がある。それはガルプ族に伝わるイダキの伝説の絵である。この絵はジャルーの兄、パティクパ・グルウィウィが描いたものだ。何度もガーマに参加し、それ以外にもアーネムランドに足を運んでいるのだが、今まで会う機会に恵まれなかった。
その出会いは突然訪れた。
ガーマの前に、イリカラ・アートセンターにいたとき、じいさんは現れた。会う前のイメージはきっと頑固なじいさんなのだろうと思っていたが、その風貌、しゃべり方、しぐさは、大変失礼ながら、まさに「かわいい」だった。
ガーマの会場でも彼はいつも赤いシャツを着た粋なじいさんだった。
たばこをあげれば嬉しそうに笑い、フォーラムで女性がイダキをふいていいか?というまじめな討議には、見ていた私に向かって「なんで女性が吹いちゃいけないんだ?みんなに吹かせればいい」と一蹴し、ダンスを踊らせれば、とても70歳を超えているとは思えない足腰を披露する。歯がずいぶん抜け落ちてくしゃおじさんのように口を動かすバティクパじいさんが僕は大好きになった。
(3)スペシャル・イダキ
今回のガーマではジャルーから直接イダキを買うつもりがなかった。なぜなら多くのはじめての参加者が彼からイダキを買いたがっているのをよく知っていたからだ。昨年は販売したジャルー・イダキの本数も少なく、その望みが叶わなかった人も少なくなかった。すでに2年前のガーマで特別に彼にあしらえてもらったイダキがあるから、たとえ私が買ったとしても自分のものにするというわけではなく、やはり販売目的の仕入れになるのも理由のひとつだ。今回はイリカラで十分すぎるほどの仕入れをした。それでも今回ジャルーは数多くのイダキを用意して私たちを待っていた。ほとんどの参加者は彼からすばらしいイダキを買うことができて満足していたようだった。私も最終日まではこのまま彼からは直接イダキを買うことはなく帰るだろうと思っていた。
ところがである、最終日の夕食を取っている時に、どうしても彼からイダキを1本かってかえりたくなる衝動に駆られる。ジャルーの家族のもとに走る。残された5本ぐらいのイダキを試したが、食指が動くものがない。決して安い買い物ではないのだからいいものが欲しい。悩んでいると、ジャルーの娘が「お前のために特別の1本を見せてあげるよ」といった。彼女は僕にテントの外で待つようにいう。出てきたイダキを見てびっくりした。一言でいえば「デカイ」のだ。それでいて、吹き口はちょうどいいサイズだった。吹いてみる。ジャルーのイダキの中でも最高の音質だった。重さは半端じゃなく重いが、すぐに購入することを決めた。するとジャルーの妻、ドフィアがやってきた。次の彼女の一言に感激した。「テツジ、もしイダキが欲しければいつでも電話してきなさい。いつでもイダキを送ってあげるから。」
発音がしにくい私の名前を初めて呼んでくれたのだ。以前はなかなか自分の名前を覚えてもらえないので名前をつけた親をちょっと恨んだりもした。おそらく10回近く会ってやっと呼んでくれたのだ。でもこの話には「オチ」がついた。
「ありがとう、ドフィア。でも、僕は電話番号知らないんだ。」
それでも、その購入したイダキはおそらく自分のプライベートイダキにはしないだろう。彼等も自分がイダキを日本で販売しているのを知っているし、その売ったお金で、また彼等のイダキを購入し、還元する方がよいと思うからだ。ただこのスペシャルイダキは、特に大切に使ってくれる人に買ってもらえれば、うれしく思う。
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