ガーマからの卒業
今年で7回目のガーマ。毎年多くのことを学び、多くの人と出会い、多くの感動をもらう。今年も同じようにたくさんの出来事があった。
自分にとって最後になるかもしれない今年のガーマで起こったエピソードを話そう。
(1)雨のガーマフェスティバル
毎年乾期のど真ん中に開催されるガーマは、晴れのイメージが強い。通常乾期というのは2~3週間に一度しか雨が降らないからである。2年前ほんの1時間ほど雨に降られたことがあったが、それ以外は過去一度も雨は降っていない。ガーマ会場入りする8月4日、午前中、昨夜着いた他の参加者とともにイリカラ・アートセンターへ向かう。イリカラでひとしきりイダキを見て、いざアートセンターの車で出発、というときになって車がパンクする。いったんアートセンターに戻り、タイヤの修理を待つことになった。アートセンターに入ったとたん、雨がぽつぽつ降ってきた。そしてあっという間に土砂降りの雨。「いや~、今出発しなくてよかったねえ。こっちの雨はすぐやむから。」などとのんきに構えていたら全く止む気配がない。そしてタイヤの修理も終わり、車に乗り込んだときにはさらに雨は激しさを増した。ガーマの会場に到着し、自分たちのキャンプサイトに着く。テントを見て絶句した。9つあるブルーのテントのすべてが雨でずぶぬれになり、テントの中も水浸しになっていたのだ。受付に戻り、その状況をランディ(アートセンタースタッフ)に話してもらい、テント担当者に来てもらうことになった。しかしその後いくら待っても担当者は現れず、業を煮やして唯一あった1本の傘をさしてテント担当者を捜しに向かった。雨は相変わらず激しさをますばかり。ようやく雨の中ずぶぬれになりながら作業をするテント担当者を見つけ、話をすると多くのテントが同じような状況だという。それでも約70%のシルバーのテントは雨にも耐えているので、そのシルバーのテントに交換してもらうことになった。しかし彼らも忙しいので1時間半ぐらい待たなくてはいけないという。仕方ないのでテント倉庫に行き、事情を説明して新しいテント9個をもらい、自分たちで設営することにした。少し小降りになった時を見計らい、ずぶぬれになりながら9つのテントを張った。きっとあのときの結束力が後のガーマでうまくまとまったのだなあと思う。テントを張り終わったらまたどっと雨が降り続けた。「まあ、明日には止むよ」そう参加者にいいながら心の中で祈った。しかしながら結局翌日も雨。乾期に2日間の雨は初めて体験した。それでも後半は天気に恵まれ、満点の星空の下、たき火を囲んで盛り上がった。
(2)遭難する女性たち
2日目の午後、ウーマンズ・ビジネスクラスに参加した日本人参加者の女性陣4名は、貝集めに出かけていく。
今年は男性はイダキマスタークラス、女性はウーマンズ・ビジネスクラス、としっかり境界線を引かれたので、男性参加者ウーマンズ・ビジネスクラスのサイトに入ることができなかった。そのため、スケジュールを聞いたのがよくわからなかったらしく、貝集めの後は野宿?という話もあり、実際いってみないとわからないね、と前の日、皆で話し合っていた。
2日目のイダキマスタークラスが終了する。この日は森に行き、イダキ・カッティングの見学と体験をする。3時過ぎに会場にもどってくると、女性陣の姿がない。「ああ、まだ帰ってきていないんだな」と男性陣はのんびり構えていた。そのときに何が起こっているかも知らずに。夕方のブングルが始まる。男性陣は女性陣のことなんかすっかり忘れてブングルを楽しんだ。夕食時間になってまた女性陣の話題になる。4台あるトランシーバーのうち1台を女性陣の1人に持たせていたので、何度か呼びかけてみたものの、反応がない。「戻ってこないねえ」「やっぱり野宿なんだね」「いいなあ、そんな体験滅多にできないし」そんな会話をしてキャンプサイトに戻る。たき火を焚いてイダキの練習を始めようとしたとき、トランシーバーから声がする。半べそ状態のその声は女性陣のうちの一人だとすぐわかった。「どうしたの?」と呼びかけると「遭難したああああ」迎えに行くとそこには疲れ切った4名の女性。詳しく話を聞くと貝拾いにいき、3台のうち1台がぬかるみにはまり、脱出できず、残りの2台が助けに来たのだが、脱出できたすぐあとにもう1台がぬかるみにはまり、そのままそこから動けずにもう野宿を覚悟したそうだ。ようやく助けが来てよる9時半に戻ってこれたということだ。男性陣は「滅多にできない体験ができてよかったねえ」と笑ったが、女性陣は本当に大変だったようだ。たき火を囲んで唄を歌ったり、とった貝を少しずつ食べたり。でも水のシャワーが浴びるのを躊躇していた日本人女性参加者の一人は、「もう水のシャワーなんか全然平気です」とたくましくなって帰ってきたのには驚いた。
(3)踊るジャルー
3日目イダキマスタークラスが終わると、ジャルーが「今日のブングルでは踊りたい。だから足にテーピングをしたいんだ」という。日本に来る直前に痛めた足が日本で2日間の入院でよくなったものの、まだ完治していないようだった。ふつうに歩く分には問題ないのだが、ヨルングの踊りは足を踏みならす動作が多いのでちょっと気になるようだ。それでも彼は踊りたいらしく急に目がきらきらし始めた。クリニックの担当者が来てテーピングを施す。ブングルの時間になり、最初にグパピュングの人たちの踊りが始まった。するとジャルーはすくっと立ち上がり、森の中へ向かう。どうしたらいいのかな?と思っていたらジャルーがいっしょにくるように合図した。ジャルーの水のボトルを持ち、一緒に森の中に入る。そこには約10名ほどの黄色いナガ(儀式用のふんどし)をつけた男性や子供がいる。ちょうどガッパン(石灰)を水で溶き体に塗るところだった。ジャルーも服を脱ぎナガをつける。ガッパンを塗るのを手伝った。自分の手は真っ白になり、少しだけブングルの準備を体験した。顔には2本の黄色いペイントを塗る。彼らはグマチの人たちでジャルーたちガルプとはヨス・インディ(母と子)の関係に当たるグループでとても近い人たちだ。だからジャルーは彼らのブングルに参加できるのだ。他の男たちが私がいるのをちょっと不思議がって見ていたが、ジャルーが紹介すると笑って歓迎してくれた。ジャルーのナガはちょっと小さくてもう一枚ベルトにする布がほしかったのだが、布はもうなかった。頼んで子供のナガを半分切って分けてもらいそれを腰に巻くと少し短くて一生懸命おなかを引っ込めて結ぶ。ちょっときつそうな表情をした後、自分を見てにやっと笑う。私も笑う。
グマチの踊りが始まる。ジャルーも踊る、目を輝かせながら。グループの中にいても彼は存在感がある。彼はブングルを愛しているんだなあと改めて感じた。もし今回が自分にとって最後のガーマになるのならもしかしたらジャルーの踊りを見るのは最後かもしれない。そう思ってたくさん目に焼き付けた。
(4)日本人参加者と海外参加者のギャップ
今年のガーマでのイダキマスタークラスは日本人参加者と他の国からの参加者と認識のギャップがさらに広がった気がする。これは主催者の事前説明が不足したからだと思う。イダキ・カッティングの日、ある参加者は自分のイダキが作れないと知ると凄くがっかりし始める。彼は自分で一緒にいって木を切ってイダキを作って持って帰ることができると思っていたようだ。イダキ・カッティングはあくまでジャルーたちがイダキの木を切るのを見て、それを手伝い、行程を体験、学習するものだということをしっかり事前に認識しなくてはならないのに。彼の落ち込みようにはこちらもげんなりした。
次にマスタークラスではイダキを吹いて練習する、というだけではなく、彼の音を聞くというのも大切なことだ。ジャルーが吹き始めると決まってその音を遮るように演奏をし始める白人がいる。ヨルング同士だと、誰かが演奏をしていたら遠慮するのが一般的だ。これは日本でもおそらく同じだろう。ましてやジャルーが吹き始めたらまずは黙って聞くのは当然の行為である。
さらに多くの参加者は彼の教え方を全く理解できない状態で参加している。もちろん自分も最初は何がなんだかわからなかったのであまりこのことを批評するつもりはないが、せめてイダキを習うのだからイダキを使ってほしかったなあ。半数ぐらいの参加者はどこで作られたかわからないディジュを使って、しかもそれをジャルーに吹くようにお願いしたりするのだ。これはあまりにも非常識としかいいようがない。そういう事前の情報提供を怠ってきた主催者の責任は重い。
何よりもこういう機会にジャルーやファミリーと親しくなる絶好の機会なのに、白人同士で固まって、海に行ってもファミリーと交流しようとしない。日本人参加者は積極的に手伝ったり、話しかけたりしていたので、ファミリーもずいぶん受け入れてくれた。それがこの次のアドプトにつながったのだと思う。
(5)突然の日本人参加者全員アドプト
ヨルングの社会ではヨルングは一つの家族だという考えがある。ヨルングであれば自分を中心にすべての人が、兄弟姉妹だったり、いとこだったり、叔父、叔母だったりする。ヨルングでない人は基本的に「よそ者」であり、あまり口をきいてはいけないというしきたりがある。それでもヨルングに受け入れられるとアドプト(養子)という制度がある。これは「よそ者」を家族として迎え入れる、というものだ。これを聞くととても特別なことのように聞こえるが、決してそんなことはない。ヨルングの社会に足を踏み入れれば誰にでも当然のことのように起こりうることなのだ。それを「自分はヨルングに家族として受け入れられ・・・」などと、あたかも特別なことのようにいいフラかす人も少なくないが、今回のガーマのように1回の面識でアドプトが行われることは少なくない。
今回のアドプトはとてもわかりやすい例だった。日本公演での成功に加え、すでに私を含め2名がアドプトされていたこともあり、初日からジャルー・ファミリーのところに足を運んだ。そのたびファミリーから「ご飯を持ってきておくれ」とせがまれ、皆で手分けをして食堂からえっちらおっちら10人前ぐらいの食事を運んだ。朝イダキマスタークラスの前に「イダキを運んでおくれ」と頼まれれば、ジャルーの重いイダキを何本も約100メートル離れたイダキマスタークラスの東屋まで運んだ。3日目の夜、「それ」は突然訪れる。ジャルーのテントで夕食を済ませ、そろそろ帰ろうかというとき、ダンガルが参加者の一人をさしていう。「彼は今日からマリカ(イリチャ半族に属するグループの名字のひとつ)になったよ」その彼はまだ状況がつかめないでいる。あまりにも淡々とドフィアがななす。「ミララはまた新しい息子をもった」別の参加者をさしていう。そして次々とアドプトされていない全員がアドプトされていった。参加者はみなびっくりして自分のヨルングの名前や意味、スキンネーム、他の家族との関係を聞いてまわった。彼らが皆を気に入った証拠だ。
ただアドプトはいいことばかりじゃない。大家族の一員になったのだから、多くのものをせがまれる。「ワワ(兄弟)、イダキを買ってくれ」「ワワご飯を買ってくれ」「ワワたばこがほしい」こんな勢いでせがまれるものだから1日何万円も飛ぶこともある。もちろん「バインゴ、ルピア(お金がないよ)」と逃げることはできる。でも日本から会いに行くときにたばこを買っていてあげたり、おみやげを持っていったり、お手伝いをしたりするのはヨルングの家族として当たり前の行為である。逆に自分が困っているときに助けてくれることもある。それにごくまれであるが、滅多に体験できないことに出くわしたりすることもある。家族になったと喜んでいても、その関係をうまくつながなくてはいけないし、そのまま消滅することだってある。アドプトは特別なことではない、それを特別なものにするのは自分次第だ。
(6)ジャルーのガーマ撤退宣言
それは最終日、日本人参加者が帰国の途に着いたあとに起こった。残った10名足らずの参加者を前にミルカイとジャルーが生徒を半分ずつ見ていた。後半生徒が入れ替わり、レッスンをしていたときのこと。ジャルーが淡々と、それでいて力強く語り始めた。「バランダはみなよく話を聞いてくれる。ヨルングの若者は私の話を聞かない。こうやってイダキマスタークラスをしているときも彼らは通り過ぎていくだけだ。それがとても悲しい。」ジャルーは真剣にヨルングの将来を心配している。「日本人はすばらしい。彼らはよく聞いてくれる。私は彼らをとても愛している。」その言葉を聞いたとき、言葉にならないほど感激をした。そしてついに核心の話へと移行する。「この土地はグマチの人の土地だ。彼らはいい奴らだ。でも私に感謝をしない。私がこうやって教えていても、感謝されたことがない。それがとても残念だ。彼らとはヨス・インディ(母と子)の関係だ。だから私はガーマで彼らを助けてきた。でも私に感謝をしない。だから私は来年ガーマにはこない。」突然の宣言にヨーロッパからの参加者はとまどいを隠せない様子だった。自分は来日公演のときに聞かされていたので冷静に受け止めることができたが、それでも公然と宣言したことにはすこしびっくりした。「来年ガーマがどうなるか黙って見守るよ」彼は悲しそうにそうつぶやいた。
彼が言った言葉がすべてだった。自分も来年参加しない理由は、主催者側があまりにもイダキマスタークラスを角へおいやるという態度。そして毎年ジャルー同様、いろいろと手間をかけて集客し、アレンジしていることに対する感謝の欠如。そしてなによりも陰で渦巻く欲とエゴが強く感じられるようになってしまったこのフェスティバルへの失望だ。
「ジャルー、僕も同じ気持ちだよ。毎年来ているが、来年はここへはこない。でも皆あなたを愛していることは忘れないでほしい」そういうと参加者からも拍手がわき起こった。
ただ正直なところ来年ジャルーが参加するかしないかはまだわからないと思う。なんだかんだいってもお金は必要だし、今までも「来年はどうするかわからない」という発言は聞いてきたから。でも主催者がジャルーに対して感謝し、私たちバックアップする人たちに感謝しない限り、自分は来年は参加しないだろう。
(7)新しいイダキという課題をもらう
ブッシュに入り、イダキカッティングの日、ジャルーは1本のイダキを切った。とても気に入ったらしく、周りで手伝っている皆に向かって演奏したという。私はその一団には参加しなかったものの、そのイダキを気に入ってしまった。まだ加工が終わっていない段階で購入を決めた。表面をそぐのを手伝い、ジャルーの奥さんであり、私から見たら姉にあたるドフィヤに「スペシャル・ペイントをしてほしい」とお願いすると黙ってうなずいてくれた。そのときはまだ自分のイダキにするか販売するか決めかねていたのだけれど。
会場に戻り、翌日ジャルーの娘であるセルマという女性がそのイダキにペイントを始めた。「どんなペイントになるんだろう」とても楽しみにしていた。その期待が少し複雑になる。しばらくして見に行くとそのイダキにはホワイトカカトゥ(白オオム)とガムツリーの花(白オオムの好物)が描かれていたのだ。イダキに、とくにジャルーイダキにこのような絵が描かれることは今まで見たことがなかった。よく考えると白オオムはイリチャにあたり、通常ジャルーのイダキにペイントされるデザインではない。「珍しいペイントだね」とドフィヤに聞くと、こう答えた。「おまえは私の弟、イリチャの人だからね」
そう、このイダキは自分のためにデザインしてくれたものだった。これではとても売るなんてことはできない。自分のイダキとして大切に使おう。そして絵が完成して演奏をしてみると、これが意外と難しかった。でもジャルーが吹くとすばらしい音色を奏でる。いいイダキであるのはわかったのだけど、それを完成した音にするのが難しい。このとき、はっと気がついた。4年前にも同じ気持ちになったことを。2001年のガーマでジャルーが自分の顎の下まである長さのイダキ(この長さがふさわしいそうだ)を作ってくれた。そのときこのイダキの演奏法がわからなかった。それから2年ぐらいはどうも納得する音色がでなくて悪戦苦闘したのを覚えている。そしてそのイダキがやっとしっくりきたときに新たなイダキという課題をもらった気がした。このイダキと向き合って学んでいけ。そうジャルーが無言のメッセージを送ってくれたのだと勝手に解釈した。
~そしてガーマは幕を閉じた。最後のガーマかもしれないが、とてもよい経験ができた。正直来年のことを少し考え直そうかとも思った。ただガーマがこの状況から脱却するための無言のエールが必要な気がする。ガーマに参加しない。そしてガーマが変わってくれれば、そう願わずにいられない。~
(レポート:哲J)
写真の無断使用不可! Copy Right: Yothu Yindi Foundation